東京地方裁判所 昭和61年(ワ)11551号 判決 1990年8月31日
原告
寺嶋泰子
被告
ヤマト運輸株式会社
主文
一 原告の請求を破棄する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、一四五三万八〇七三円及びこれに対する昭和五六年一月一九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 1項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二請求の原因
一 本件事故の発生
1 原告は、昭和五六年一月一九日午後五時三〇分ころ、埼玉県川口市青木二丁目一番一号先の道路上を、原動機付自転車(以下「原告車」という。)に乗り走行中、被告ヤマト運輸株式会社(以下「被告会社」という。)の従業員である戸田義則の運転する普通貨物自動車(以下「被告車」という。)が、原告車の後方から、その右側を通過して原告車を追い越した直後、原告車の直近前方において停止し、いきなり被告車の左側ドアを開けたため、原告は、原告車もろとも同ドアに激突転倒し、その結果、第四・五腰椎後縁圧迫骨折、頸部捻挫、胸椎七・八圧迫骨折等の傷害を負つた。
2 原告は、本件事故による右傷害の治療のため、入院・通院を繰り返し、一応症状が固定したとの診断を受けた昭和五八年八月一三日までの間に入院日数一九四日、通院日数七四四日を数えている。症状固定後、原告は、後遺症として胸部・腰部に常時残存する疼痛があり、労災保険法一五条二項、同法施行規則一四条による同規則別表第一の障害等級第一一級の五「せき柱に変形を残すもの」に該当する旨の認定を受けた。現在でも、原告は、右疼痛のほか右足等の痺れもひどく、コルセツトを着用し、杖を使用しなければ歩行が困難な状態であり、リハビリテーシヨンのための通院を続けている。
二 被告会社の責任原因
被告会社は、被告車を所有し、自己のために運行の用に供している者であるから自賠法三条にもとづき、本件事故により原告の被つた損害を賠償すべき責任がある。
三 損害
1 逸失利益 一三二〇万円
原告は、症状固定時の昭和五八年八月一三日において、満四九歳であり、少なくとも満六七歳までの一八年間は就労可能であり、これを本件事故当時の原告の年収五六四万五二七二円をもとに、労働能力喪失率を一〇〇分の二〇とし、中間利息の控除をライプニツツ方式・係数一一・六八九五で計算すると、原告の逸失利益は一三二〇万円を下らない。
2 慰謝料 五九六万円
原告は、症状固定時まででも九三八日に及ぶ入院・通院を余儀なくされ、常時疼痛と歩行困難を伴う後遺障害を負つた上、現在でも通院を継続中で、今後復職のめどさえ立たない状況であつて、かかる状況に照らせば本件事故により原告の被つた精神的苦痛は極めて大きいものであるから、その精神的苦痛に対する慰謝料は、傷害について二五六万円、後遺症害について三四〇万円の合計五九六万円を下らない。
3 以上損害額合計 一九一六万円
4 填補 四六二万一九二七円
原告は、これまでに四六二万一九二七円の支払いを受けている。
四 よつて、原告は、これまでに被告に対し、一四五三万八〇七三円及びこれに対する本件事故日である昭和五六年一月一九日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
第三請求の原因に対する認否
一 請求の原因一項については本件事故の日時(ただし、時間は午後五時四〇分ころである。)、場所、被告会社の従業員の戸田義則が運転する被告車が停止し、被告車の左側ドアが開いたところへ、原告の運転する原告車が衝突転倒したことは認めるが、本件事故の結果、原告が第四・五腰椎後縁圧迫骨折、胸椎七・八圧迫骨折の傷害を負つたことは否認し、その余は不知ないし争う。
二 同二項については被告会社が被告車を所有し、自己のために運行の用に供していたことは認めるが、その余は争う。
三 同三項については損害を争う。
四 同四項については争う。
第四抗弁
原告は、被告車が停止したのを見て、人が降りるのではないかと予測しながら、そのまま漫然と被告車の左側を通り抜けようとしたものであるから、本件事故については、原告にも過失がある。
第五証拠
本件記録中証拠関係目録記載のとおりである。
理由
一 原告は、本件事故により第四、五腰椎後縁圧迫骨折、頸部捻挫、胸椎七、八圧迫骨折等の傷害を負い、せき柱に変形を残し、胸部・腰部痛等の後遺障害が残存する旨主張し、被告はこれを否認するところ、成立に争いのない乙第一号証の六、七、乙第一〇号証、乙第一一号証の一、二、乙第一二号証、乙第一三号証の一ないし五、乙第一四号証、乙第一五号証の一ないし一〇、乙第一六号証の一ないし一二、乙第一七号証の一ないし一五、乙第一八号証、乙第一九号証、乙第二〇号証の一ないし二〇、乙第二一号証の一、二、乙第二二号証の一ないし五、乙第二三号証の一ないし五、乙第二四号証の一、二、乙第二五号証の一ないし一三、乙第二六号証の一ないし一二、乙第二七号証の一ないし六、乙第二八号証、乙第二九号証、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第三号証、調査嘱託の結果、鑑定嘱託の結果、原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。
1 原告は、本件事故日である昭和五六年一月一九日、菊池診療所に通院し、肩と腰部のレントゲン撮影、湿布、解熱剤ポンタール投与等の治療を受けた。
原告は、その当時の症状として「右手が麻痺しました。腰と背中の痛みで背骨が曲がつた感じで、背中が痛くて、口がきけなかつたです。腰はコンクリが入つたように痛かつた」、「手はぶらんこで同じです。背中も胸の痛みも同じ」等と述べているが、同診療所医師菊池哲彌作成の昭和五六年一月二四日付け診断書(乙第一号証の六)では、病名として「右肩腰挫傷」とし、「右により昭和五六年一月一九日より加療全治一週間」としている。
2 その後、原告は、昭和五六年一月二〇日、川口市民病院に通院し、腰椎・右肩・頸椎のレントゲン撮影、鎮痛剤、筋弛緩剤の投与等の治療を受けた。
同病院の医師浅井亨作成の昭和五六年一月二〇日付け診断書(乙第一三号証の五)では、病名として「頸部、右肩、腰部打撲」とされ、「右の疾患にて約一〇日間の加療を要す」とされているが、原告の主訴としては腰痛、頸部痛、右上肢挙上不能というものであつた。
3 その後、原告は、昭和五六年一月二一日川口工業総合病院で診察を受け、右肩の挙上は痛みが著しいため不能であり、腰部は動くと痛みが増強する等ということから、レントゲン撮影では明瞭な骨折は見られなかつたが、湿布処置後に入院し、経過観察となり、同日から同年三月二日までの四一日間入院して治療を受けた。
同病院の入院診療録では、診断として「頸部挫傷、右肩挫傷、背腰部両上腕打撲」とされ、同病院医師長束裕作成の昭和五六年一月二六日付け診断書(乙第一号証の七)でも、病名として「頸部挫傷、右肩挫傷、背腰部両上腕打撲」とされ、「約一か月間の加療必要と思われます」とされている。また、同病院の看護記録では、「背部、両腕胸部打撲、急患にて菊池病院受診するも空室がなく、二〇日は川口市民病院受院するも骨には異常なしといわれた、二一日加害者と当院受診、入院となる」とあり、原告の現症としては腰部両腕首胸部に疼痛があり、吐き気はなく、頸痛ありというものである。入院当初原告は右の症状を訴えていたが、昭和五六年二月九日ころから「特に訴えなく安静なり」となり、入院診療録では、同月一九日に「今月一杯で退院させたい」とあり、原告は同年三月三日退院となつている。
4 その後、原告は、昭和五六年五月一六日、岡崎病院で診察を受けた後、同月一九日から同年一〇月一八日まで一四三日間同病院に入院して投薬、注射、牽引、運動、理学療法等の治療を受け、同日退院した後、昭和五七年九月一七日ころまで同病院に通院して治療を受けた。
乙第二〇号証の一には、傷病名として「頸椎捻挫、腰椎捻挫(側弯症)、七・八BW骨折、四・五腰椎後縁圧迫骨折」、乙第二二号証の四においても、傷病名として「頸腰椎捻挫、七・八胸椎骨折、四・五腰椎後縁圧迫骨折」と、また、調査嘱託の結果でも、「胸椎七・八の骨折と変形」、「腰椎四・五の圧迫骨折あり側弯症を起こす」等となつている。
しかし、同病院医師岡崎清作成の昭和五六年八月二〇日付けの診断書(乙第二八号証)では、病名及び態様として「頸・腰椎捻挫」、「頸・腰痛、吐き気あり、物が二重に見える、背痛もあり、肩が挙上困難で肘下に痺れ感を訴える、右肩痛は強い、五月二八日入院、投薬、注射、牽引、矯正を続け、頸椎固定装具を作成使用、脳波に異常を認めず、七月以降運動療法も行つているが頸肩腰痛が猶残つており頭重感、めまいも時々訴えており、加療継続中」等の記載があるも、右のような骨折の記載はない。
また、同医師作成の昭和五七年九月一〇日付け診断書(乙第二九号証)でも、傷病名として「頸腰椎捻挫」とされ、昭和五七年九月一〇日レントゲン撮影を受けているが、頸椎後屈時四・五頸椎の捻挫、腰椎第三腰椎中心の捻挫著明で側弯す等の記載があるも、右のような骨折の記載はない。
5 その後、原告は、昭和五七年九月六日から高橋外科病院に通院して治療を受け、腰椎の圧迫骨折と診断されたが、その後、昭和五八年六月ころ、東京医科歯科大学付属病院整形外科で診察を受け、胸椎の骨折と言われた旨高橋外科病院医師高橋哲二に原告が話したところ、同医師も、昭和五八年六月か七月ころ、胸椎圧迫骨折とした。
同医師は、昭和五八年八月一三日に原告の症状を固定として、診断書(甲第三号証)を作成し、傷病名は第四・五腰椎体後縁圧迫骨折、第七・八胸椎骨折、頸部挫傷としている。
6 その後、原告は、昭和五八年一〇月六日から岡崎病院に通院して治療を受けている。
同病院の診療録では、傷病名として「変形性腰椎症」としている。
二 右認定事実によると、原告が第四・五腰椎後縁圧迫骨折と最初に診断されたのは高橋外科病院においてであると認められる。
岡崎病院の前記「四・五腰椎後縁圧迫骨折」等の記載は、前記の同病院医師岡崎清作成の昭和五六年八月二〇日付け診断書(乙第二八号証)、同昭和五七年九月一〇日付け診断書(乙第二九号証)の記載内容に照らして、後日記載されたものと認められ、信用しがたい。
ところで、成立に争いのない甲第四号証においては、独協医科大学越谷病院医師五十嵐裕は「第五腰椎に関しては骨折による証拠は認められない」としているし、武里外科脳神経科病院医師遠藤実も、腰椎レントゲン所見は変形性変化のみと判断され骨折は認められないとしているうえ、後記の鑑定嘱託の結果においても、骨折の所見はないとしていることからすれば、高橋外科病院における前記第四・五腰椎後縁圧迫骨折の診断は信用しがたく、原告に第四・五腰椎後縁圧迫骨折の存在を認めることができず、原告が本件事故により第四・五腰椎後縁圧迫骨折を負つた旨の原告の主張は採用できない。
高橋外科病院では、前記のように第四・五腰椎後縁圧迫骨折と診断した後に、昭和五八年六、七月ころ、第七・八胸椎骨折と診断している。
右高橋外科病院の診断は、原告が東京医科歯科大学整形外科での診断で胸椎骨折と言われた旨告げたことから、その診断がなされたもので、その診断経過は不透明なとこがあるが、甲第四号証にも第七胸椎の偏平化は圧迫骨折に起因するものと認める旨の記載がある。なお、岡崎病院の前記「七・八胸椎骨折」等の記載は前同様信用しがたい。
ところで、鑑定嘱託の結果によれば、川口工業総合病院で昭和五六年一月二一日に撮影されたレントゲンフイルム(乙第二七号証の一ないし六)にあつては、「第三・四腰椎間の椎間板の狭小化が著名である。腰椎全体に加令退行変性所見を認める。骨折の所見はない。第七胸椎椎体の偏平化あり。第七・八椎体に骨棘形成あり。胸椎全体に加令退行変性があるが骨折は認められない」というものであり、高橋外科病院で昭和五七年九月七日撮影したレントゲンフイルム(乙第二六号証の一ないし四)、同年一〇月七日撮影したレントゲンフイルム(乙第二六号証の五及び六)、昭和五八年二月五日撮影したレントゲンフイルム(乙第二六号証の七及び八)、同年三月二八日撮影したレントゲンフイルム(乙第二六号証の九ないし一一)、同年七月六日撮影したレントゲンフイルム(乙第二六号証の一二)においても、腰椎、胸椎ともに右同様の所見である。また、独協医科大学越谷病院で昭和六一年二月一三日撮影したレントゲンフイルム(乙第三四号証の一ないし八)にあつても、前記腰椎の所見に加えて第二、三、四、五、椎間板の狭小化が認められ、前記所見が進行しているように判断されるというものであり、武里外科脳神経外科病院で昭和六一年三月一七日撮影したレントゲンフイルム(乙第三六号証の一ないし一八)にあつても、前記同様の所見で、コンピユーター断層撮影所見において加令変化を認め、脊髄造影所見については第三・四腰椎椎間板及び第四・五腰椎椎間板部で前方よりの圧迫像を認め、椎間板ヘルニアと考えられるとし、しかし、外傷の所見はないということが認められることからすれば、原告に第七・八胸椎圧迫骨折の存在を認めることができず、原告が本件事故により第七・八胸椎圧迫骨折を負つた旨の原告の主張は採用できない。
以上の次第であるから、原告が本件事故により、第四・五腰椎後縁圧迫骨折、胸椎七・八圧迫骨折を負つたと認めるに足りず、他に原告の主張を認めるに足りる証拠はなく、原告の現在の愁訴は、鑑定嘱託の結果によれば腰椎椎間板ヘルニアに関連するものと考えられるとしていることからすれば、本件事故と相当因果関係を認めるに足りる証拠はないとするのが相当である。
三 よつて、原告の請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 原田卓)